キャンパスではサマーインターンを巡ってのリクルーティング活動が盛んだ。昼にinternational studentsのクラスメートと情報交換をしあったのだが、同じ海外からの学生でも、途上国から来ている学生の就職活動の背景状況は私たち日本人と大きくことなることを痛感する。バングラディッシュから来ているクラスメートは、卒業後もアメリカで働くために就職活動中。国に帰ってもここで学んだスキルを生かして高い給料をもらえるような職がない。政府の腐敗、市場の未成熟、インフラの未整備。。。 母国に帰ることは、おそらくないという。PEへの就職を希望している。パキスタンから来ている友人は、自身がコングロマリット企業の社長なので、パキスタンに戻るという。彼の会社では、これまで繊維産業を中心にしていたが、その後テレコムに進出、競争が激化したため競合に部門を売りさばき、現在は発電・エネルギー関係がビジネスの中心になっているという。今後は銀行業への進出を検討している。彼のような特殊な例を除いて、まずこのようなアメリカのMBAプログラムに参加して母国に帰る人はいないという。中国から来ている友人は、英語での就職活動に非常に苦戦している。彼の出身地に戻ってもいい職がないため、外資系企業への就職を希望している。そのためには英語を学ばなければならないのだが、そこまで英語が達者でなく、この歳からの英語力向上の限界も感じている。「日本は国内に魅力的な職が沢山あっていいよな」、ということをよく言われる。
途上国からのinternational studentsが口を揃えて言うのは、もし母国に魅力的な職業が豊富にあるなら、当然母国でやりたいということ。言語のハンデもないし、人脈や文化理解のアドバンテージもあるし、家族もいる。でも悲しいかな母国には高度なスキルで高い給与を得られるような職がないので、仕方なくアメリカの土俵で相撲を取っているというのだ。親も必至で子供を若い頃からアメリカの教育機関に入れようとする。ただしそれができるのは一部の超富裕層のみだ。お隣の国、韓国でも、アメリカで教育を受けさせて外資系に就職させることが豊かな生活を送る大切な条件のようで、似たような状況らしい。
こちらに来て改めて感じているのは、そう考えると、日本は恵まれているということ。国内の市場が十分大きく、成熟していて、国内で働くことがアメリカで働くことに比べて見劣りするわけでもなく、英語を必至で学ばずとも幸せな生活を送れる。外資系企業の給料が相対的に高いということはあるが、アメリカで教育を受けずとも外資系企業の日本オフィスに就職して日本で働ける。立派な日本企業も沢山ある。アメリカ資本主義の大波に国内を蹂躙されていないというか、アメリカ語やアメリカ式のビジネスを学ばないと生き残れないような「アメリカ社会」にはなっていない。アメリカで働かざるを得ないinternational studentsたちを見ていると、アメリカで働くか、日本で働くか、ニュートラルに選べてしまう母国を持った自分たちはラッキーだと思う。私たちの親の世代が築いてくれた「経済大国日本」の遺産に感謝しないといけないな、と感じた。
友人と2人で食事をしている際、私の後の席に日本人の女性2人組が座った。日本語で談笑していたので日本人だとわかったのだが、ここら辺で日本人は珍しいと思い、Stanford関係者かと思って日本語で声をかけてみた。すると、こちら側2人は見るからに誠実で質実剛健、子羊のように純粋な2人組(友人は香港人)なのに、ナンパと勘違いしたのか、ギロっと白い眼で見られ、「何この人。マジうざいんだけど。」的な雰囲気でシカトされてしまった。そのあと聞こえてくる会話の内容、雰囲気からすると、どうやら日本からの観光客のようだった。そう言えば、日本では若者がいきなり知らない異性に声をかけると「ナンパ」という捉え方をされることを思い出した。こちらにいると、知らない人とも気軽におしゃべりすることが結構あるで、その雰囲気のまま、久しぶりに日本人を見て嬉しくて声をかけたのに、どうやら「下心を持ったお兄さん方」というレッテルを貼られてしまったらしい。
アメリカは赤の他人とのファーストコンタクトの敷居が日本よりも低い国で、誰とでも会話が始まればとりあえず楽しく会話をする。バスや電車の中でも、知らない人との会話が始まるケースも多い。日本でバスや電車の中で知らない人に話しかけたら、まずほとんどの人は眉をひそめるだろう。(日本でもおじいちゃん、おばあちゃん同士の世界ではよくある模様だが、若者が、知らない若者に声をかけることはほとんどないだろう。)
他人との距離の取り方の日米における違いということなのだろうが、今日は白い目で「ナンパ師」扱いをされ、ちょっと凹み気味でもあるのでした。(無防備の満面の笑顔で声をかけただけに、彼女らの無慈悲なカウンターパンチは、子羊のごとく繊細な私の心の奥深くをえぐった。)あんな眼で見なくてもいいのになぁ。。。。(涙)
アメリカに住んでいると、「Politically Correct」という概念から離れては生活ができない。日本にはない非常に面白い概念だ。簡単に言うと、公の場で、「していい発言(politically correct)」と、「してはいけない発言(politically incorrect)」が、皆の常識としてなんとなく共有化されている。
これまでStanfordで過ごしてきた感覚からすると、「Politically incorrect」な発言(NG発言)は、大きく2つに分類できる気がする。1つ目が「差別に関わる発言」で、2つ目が「内面(精神)の自由を阻害する可能性がある発言」だ。
1.「差別に関わる発言」
端的に言うと、人種と性別に関する差別的な発言。「白人だから」「黒人だから」といった発言は特に好ましくなく、人種差別主義者だと思われるとその人の社会的なイメージの損傷は非常に大きいらしく(取り返しがつかないくらい)、皆、人種に関わる発言をせざるを得ない場合は、非常に言葉を選んで発言する。ただし1対1で個人的に話をすると、こっそり話をしてくれることもあるが、3人以上の場で、アメリカ人が自分からこの話題を振ることはまずないと思っていい。
端的に言うと、人種と性別に関する差別的な発言。「白人だから」「黒人だから」といった発言は特に好ましくなく、人種差別主義者だと思われるとその人の社会的なイメージの損傷は非常に大きいらしく(取り返しがつかないくらい)、皆、人種に関わる発言をせざるを得ない場合は、非常に言葉を選んで発言する。ただし1対1で個人的に話をすると、こっそり話をしてくれることもあるが、3人以上の場で、アメリカ人が自分からこの話題を振ることはまずないと思っていい。
ただ、白人の黒人に対する差別意識は、実は根深いという感じもする。何人かのアメリカ人と1対1で話した際には、「もちろんこんなことは公には話せないけど、やはり黒人はこの国では”奴隷”としてスタートしたから、どうしても出発点が違う。立派な黒人もいるけれど、全体を見ると、やっぱりまだアメリカの一市民としての洗練度は、足りないと思ってしまう」とのこと。「彼らは我々の”奴隷”だった」というのは私にとっては強烈なコメントで、その差別意識は表面的には規制しようとも、心の底ではそう簡単には埋まらないのだろうな、という感想を持った。ちなみに性別に関しても、クラスの黒人女性(すごく知的な人)の授業での発言は強烈だった。「Global Context of Management」というグローバル化に関する授業の中で、女性が社会的に活躍しにくい国に、女性がプロジェクトのリーダーとして派遣される中奮闘するというケースを扱ったのだが、彼女は「こんなことをされたら、即刻訴える」とのこと。アメリカの訴訟社会を感じた瞬間でもあったが、彼女いわく「女性が活躍しにくい国であるのに、女性をそこに送ること自体、女性に男女差別の現実を味わわせ、その人のキャリアに傷をつける最悪の行為」とのこと。確かにその通りだが、「即刻訴える」というその発言に、アメリカでの性別差別に対する意識の温度感を感じた。
2.「内面(精神)の自由を阻害する可能性がある発言」
具体的には、宗教と政治に関する発言。公の場ではこれらの話は一つのタブーになっている。私の今のところの理解では、宗教や政治に関する発言をすると、話がこじれて争いになってしまい、結局は逆に個人の内面(精神)の自由を奪う結果になってしまうからだと思っている。個人の信条、利害が端的に表れるところなので、逆説的だが、内面(精神)の自由を担保するために、内面(精神)に関する発言を抑制しているのだろう。積極的に「認め合う」というより、「会話にしない/干渉しない」。日本人からすると「さみしい」と思ってしまうが、はるかに多様な人と多様な思想を持った人が集まるこの国でこそ生まれた、独特の知恵なのだろう。
具体的には、宗教と政治に関する発言。公の場ではこれらの話は一つのタブーになっている。私の今のところの理解では、宗教や政治に関する発言をすると、話がこじれて争いになってしまい、結局は逆に個人の内面(精神)の自由を奪う結果になってしまうからだと思っている。個人の信条、利害が端的に表れるところなので、逆説的だが、内面(精神)の自由を担保するために、内面(精神)に関する発言を抑制しているのだろう。積極的に「認め合う」というより、「会話にしない/干渉しない」。日本人からすると「さみしい」と思ってしまうが、はるかに多様な人と多様な思想を持った人が集まるこの国でこそ生まれた、独特の知恵なのだろう。
「Politically Incorrect」について私が面白いなぁと感じるのは、実は「アメリカには言論の自由がない」という点。いささか過激なコメントだが、半分真実なのではという気がしている。「Politically Incorrect」な発言をすることは実質上タブーになっており、例えばアメリカの大学の中ではそのような発言をした教授は無条件で解雇になることがあるという話をアメリカ人から聞いた。「Politically Incorrect」な発言はその人の社会的なイメージを決定的に壊してしまうらしく、いかに「お金を稼げば尊敬される」シンプルなアメリカ社会においても、「Politically Incorrect」なレッテルを貼られると社会的名誉は地に落ちてしまうとのこと。他人への誹謗中傷など、どんな国でも言論の自由の制限は実質あるが、「Politically Correct」という概念は日常生活の中でも意識させられる場面が大きく、日本や西洋よりも言論の不自由さを感じる。
以上からは導かれないが、アメリカ社会に対する印象を仮説で大胆に書くと、アメリカ社会というのは、お金さえ稼げば尊敬される社会。「人種・性別差別」を撤廃することで、結果的に多様な人々の英知を最大限結集して、皆が「平等」にお金稼ぎをできるようにしている。逆に、それを阻害する人種・性別差別発言は、極度に嫌悪される。そしてお金さえ稼げば、誰も個人の内面・価値観については判断を下さない(非干渉&放置)。その意味でアメリカは「自由」なのだろう(ただ発言(≠内面)は制約を受ける)。こういった社会の在り方を示し、また支えている1つの概念が、「Politically Correct」という概念のような気がする。
Thanksgiving Dayが終わると、街は一気にクリスマスムードに転じる。たいがいThanksgiving Dayの日の明け方からクリスマス商戦の大安売りがスタートし、各デパートには人々が殺到する模様だ。(今年はニュースでも報道されたとおり、Thanksgiving前からセールが前倒しで始まったが。)私は今回は前日深夜まで飲んでいたこともあって、果敢に朝からデパートに出向くことはしなかったが、かわりに夕方に近くの都市であるサンノゼに出向いてみた。街の中心部では、さっそくクリスマスの飾り付けが施され、買い物を終えた人々でごった返していた。クリスマスのデコレーションで日本との違いを感じるのは、宗教色の有無。言うまでもないが、クリスマスはキリスト生誕を祝うお祭りである。こちらではクリスマスは家族で集まって祝う(≠恋人同士で街に繰り出す)のが通常なのはご存じかと思うが、街のイルミネーションを見ても、日本との違いを感じる。日本でもおなじみの飾り付けられたクリスマスツリーやサンタ・トナカイに加え、羊飼いの人形であったり、イエスが生まれた馬小屋の模型であったり、キリストの誕生を予言する星を観察する博士たちの姿であったり、キリストの生誕を待ち望む(または祝う)人々の人形であったり、日本では見られない「宗教的」なオーナメントが街の所々にお目見えし、ライトアップされている。
ちなみに私は、西洋文化を知る土台になるだろうと思い大学時代に頑張って聖書を通読したことがあるが、教会のステンドガラスやフレスコ画、美術館での宗教画などを見るのが好きになったのも、それが意味することを理解できるようになったことが大きい。ただし実際アメリカで日常生活を送っていると、アメリカにおいて宗教の話をするのは「Politically Incorrect」にあたるためか、Stanfordでの学生との触れ合いの中でキリスト教の知識が生きる機会は予想以上に少なかったりもする。多くのアメリカ人の価値観や文化に大きな影響を与えているはずのキリスト教といったものが、日常生活の中で語りにくくなっているというのも悲しいことのような気もするが。
そんなこんなで、街では家庭用の装飾品も頻繁に売られるようになり、Stanfordの周辺もクリスマスモードになってきている。ただ今年のクリスマスは、学校の公式行事でニューヨークに直前までいるため、Stanfordではなくニューヨークで過ごそうと思っている。クリスマスシーズンのニューヨークは初めてなので、それはそれで楽しみだ。

